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むつみ先生奮闘記

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国歌とは何だろう?

息子の運動会では、昨年も今年も
(おととしもかもしれませんが、覚えていません)
開会式では国旗掲揚があり、国歌がながれました。
私が子供のころだったら、当然のことだったのですが、、
今の日本の実情と、息子の保育園が認可の私立である、ということを考えたら
ちょっと意外な感じのする場面でした。

私はその場面を心地よく感じました。

私は、「君が代」も「仰げば尊し」も大好きです。
中学時代、合唱部に所属していた私は、
君が代がどれくらい歌うのに難しい歌であるか、ということを感じました。
あの荘厳さがなかなか出ないのです。

先日の話題になったボクシングの試合のオープニングに歌ったリーゼントの人なんて最悪。
サッカーの国際試合なんかにもいろんな人が歌いますが
なかなか荘厳に、堂々と、重々しく歌える人はいません。
そういう日本人が減ったのかも?というのは言い過ぎかもしれませんが。
ここ数年で、唯一涙のこぼれそうな君が代を歌ってくれたのは
なんとまだ20歳になるやならずやだったころの小柳ゆきさんでした。
ちょうどニュージーランドから帰国したばかりで、
私の中のナショナリズムも最高潮だったからよけいにそう思ったのかもしれませんが。

そういう、歌うのにも難しいような国歌を持った国に生まれ育ったことを誇りに思っています。

そもそも、学校行事などで、君が代が流れるシーンで、
歌わないくらいは許せるとしても、起立もしないという先生が許されるのか?と思います。
信仰、信条の自由はもちろんどの人にもあります。
でも、教師という立場では、子供を教育するという立場では、
個人の信条はとりあえず脇においておいてほしいと思うのです。

君が代の歌が、過去のいろいろなこととの関連で言われていることは承知していますが、
国歌である、ということを踏まえたら、
子供の教育という場面では、個人の信条は抑えてもらえないか、と思います。

人間には帰属意識というのがあります。
自分の所属する家、学校、地域、国、自分が所属するそういうグループに対して、
理屈なしの愛着というものがあるのが自然なことなのです。
もちろん所属するが故の不満や批判は当然あるはずです。
でも不満も批判も、愛着の上になりたっている、というのが自然な状態だと思います。

国に対する愛情を持たなくてもいい、という教育を受けた者に、
家族や、友達や、近所の人たちに対する愛情を持つことができるでしょうか?
残虐な犯罪や、親子関係のいびつさなどをなくそうとする際に、
国家に対する愛情はなくてもいいから、近隣の人には愛情を持って
と言われても、それは無理じゃないですか?
自分の所属する場所に対して、
それは自分の選べるものではないとしても、
愛情も感じ、批判や不満も感じ、それが普通の、人間の感情でしょう。

国家に対する帰属意識や愛着を批判するものが、
家族や隣人に対する愛情を説けるのでしょうか?

ニュージーランドでミルフォードトラックを歩いたとき、
食後のレクリエーションで、国別に余興をする際に、
多くの国の人々は、国歌を歌いました。
最大人数であった、わが日本の人々は、上を向いて歩こうを歌いました。
それはたぶん「君が代」があまりに歌うのに難しい曲であるからだ、
と私は自分にいい聞かせてきました。

もしも次に同じような機会があったら、
きっとひとりでも君が代を歌いたい、と思っています。

息子の運動会の開会式では、全園児が帽子を脱いで、国旗の掲揚を見つめました。
私は、小さな声ではありますが、何年ぶりでしょう、
声を出して君が代を歌いました。
どこに行っても、どんな暮らしをしていても、私は日本人だ、と感じました。
その想いはきっと息子にも伝えていくつもりです。
by horii-ent | 2007-10-20 23:05 | 私事
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堀井耳鼻咽喉科の女性医師の毎日を紹介


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